atriumブログ

デザイン事務所atriumの雑記です

静岡県県産品シンボルマーク

浜松市に点在するデザイナーたちを繋げて、それぞれの技術や知識を活かして相乗的にデザインの質を上げ、問題解決に取り組んでいくという、DORPという組織があります。そこの活動に参加し、静岡県の農林水産物などの県産品のPRに使用されるシンボルマークを、学生やデザイナーの皆さんとともに共同でデザインすることに関わらせていただきました。

今回のデザインは、静岡県庁内のプロジェクトチームの皆さん、そして静岡文化芸術大学の学生3名や、PLANPOT DESIGN WORKSの鈴木さん、写真と、企みの大杉さん、サイフォングラフィカの宮下さん、フロムフラットデザインの谷村さん、同様にフリーで活躍している桑田亜由子さんたちとともに、それぞれの知見を持ち寄って、複数回にわたるデザインレクチャーやデザインワークショップなどを重ねつつ、皆でアイデアをブラッシュアップしながら制作が進められました。先日、無事にプレスリリースがあり、今後、もろもろの県産品のPRを後押しできるものになっていくことを願っています。

カールステン・ニコライ展 パララックス

先日、千葉県市原市にある市原湖畔美術館に、カールステン・ニコライというドイツ人のミニマル系アーティストの展示を観に行った。この美術館は東京から電車を乗り継いで行くと2時間以上かかるのだが、東京駅から高速バスを利用すると、1時間ほどで最寄りバスターミナルまで着き、そこからはタクシーで5分ほどで美術館に着くことができる。公共交通機関ではおそらくこれが一番早いだろう。

なぜ、市原市という地方の小さな美術館でこの展示が開かれることになったのか分からないが、この作家は昔から好きだったので、多少、遠くても、どうしても観に行きたかった。とはいえ、今回はちょうど東京に行く予定があり、そのついでに、行ったのだが…。

この人の作品作りのアプローチは、とても科学的なもので、心電図のように規則的に波打つ線の映像や、雲の表面の凹凸をひたすら並べただけの映像、不規則な低周波の干渉で起こる、ぼやけたりちぎれたりする光の映像など、数学的な規則性や、ある物理法則の一部分をひたすら見せている。たとえば自然のなかで、水辺の波紋をずっと見ていたり、葉っぱが揺れる影を何となくずっと眺めていたりすることが、人にはあると思うが、そういう心地よい反復と、ろうそくのような少しの揺らぎがあって、無意識に引きつけられるものがある。

自然の映像などだと、情緒が発生してしまうので、邪魔だが、この人のは、ただの線だったり、白黒の明暗だったり、いかにも冷たそうな、感情を排した表現に徹しているのがとても良い。論理と感情は背反する要素と捉えられることが多いが、たとえば、科学者や研究者が、客観的な研究成果の発表をしているなかで、ふいに気がつくと美について語っている瞬間があるようなこともあり、それらは別物でなく、同様に想像力の産物なのだろうと思う。

寺田寅彦という物理学者の書いた本を読んだことがあるが、それは淡々とした文章で、こういうことがありました、そして次にこういうことがありました、それからこうなりました、こう思いました、という事実が記号のように静かに並んでいた。でもそれなのに確かな感傷があって、美しい余韻があった。今回、見たこれらの映像にも、同様の感傷があった。

展覧会を見ながら、確か…昔…小林秀雄?だったかが…詳しく覚えていないが、誰よりも豊かな想像力がないと研究者はできない、と書いていた文章を思い出していた。

ちなみに自分は文学や文学批評に詳しいわけでは全くない。こういう良い展示をみていると、今まで雑に読みかじった、もろもろのものが何となくつながって感じられる時がある。

(※これは、写真撮影が許可されている展示でした)

Vertical protter 1

最近は機を見て、一般にVertical protterと呼ばれる吊り下げ式のドローイングボットを作成している。2つのステッピングモーター(回転量をプログラムで制御できるタイプのモーター)を使って、吊り下げられたボールペンを上下させて、図形を描いていく。数年前に一度、簡易的なものを作ったことがあり、また作り直したいと思っていたのだが、そのまま数年が過ぎていた。。

今回またゼロからプログラムを作り直しているので、時間がかかっているが、ランダムな四角形を描くものは出来た。

ロゴと色の組み合わせを自動生成するサイト builtbyemblem.com

以前にillustratorスクリプトで、ランダムなフォントで文字を組んで、デザインのアイデア出しを効率化することについて書いたが、それと同じようなことが手軽にできる、とても良いウェブサイトがあった。Builtbyemblem.comというサイトで、文字列を入力すると、その文字列が様々な雰囲気のフォントおよび背景色で無限に表示されていく。各タイルをクリックすると、snsやモバイルアプリに展開したときのモックアップイメージまで自動生成されるようになっている。。

自分ではあまり発想しない雰囲気の文字や、組み合わせにも、こういうツールの力を借りることでアクセスすることができて、より柔軟な思考が得られるので、この手の便利サイトがあれば、またメモがてら載せていきたい。

4月

ずっとバタバタとしていて随分久しぶりの更新になってしまった。4月になったというのにまだ寒く、外を歩くと一応、春らしいものたちが控えめに存在しているが、例えば桜などもまだ大っぴらに咲いたりしていないようだ。

外に出れば数分で湖畔の公園に着くところに住んでいても、普段ほとんど篭って作業ばかりしているので、そうした自分の習慣がなかなか変わらないことに気が付かされる。

ずっとエンドレスで作業してしまうので、意識的に外に出て、公園を散歩してみると、まだ花の咲いていないつぼみ状態の桜の木の下で、シートを広げて、おにぎりなどの弁当を静かに食べている若い夫妻と子供の姿があった。平日の昼間で、人もほとんどいないうえに、桜並木の下には、花見の場所取りに関する注意書きのカンバンが並んでいて、開花後のおおきな賑わいを予感させる状況下で、ぽつねんと半歩早い花見をやっていた。

その様子がとても侘びた雰囲気で、良かった。千利休は咲き乱れる朝顔をあえて一輪だけ残して全て摘み取って、そのコントラストで侘び感を出したが、今回の花見家族は、あえて桜の咲く一瞬前の今日の日をえらんで、来週には華やいでしまうこの公園の姿を幻視させて、時空間のコントラストで侘び感を出していたようにも思えて、技巧的な気がして、なるほどと思った。。。

Elizabeth Peyton: Still life 静/生

品川の原美術館で、Elizabeth Peytonというアメリカの女性画家の展示を観た。「Still life 静/生」という展示タイトルで、国内では初の個展となるとのことだった。

from Michael Werner Gallery website

かなりざっくりとしたタッチで、透明感ある淡い彩度の肖像画を多く描いている作家で、エドワード・ホッパーとかリュック・タイマンスのような、あえてディティールを描き切らない素朴さのある形と、そこにあたる光の感じがきれいで、かなり良かった。

ロックミュージシャンのポートレートが何枚かあって、カート・コバーンとかシド・ヴィシャス、ジュリアン・カサブランカス、ピート・ドハーティ…などのものがあった。実際に会って描いているわけでなく、写真から起こしているらしいが、どれも本人の特徴をとらえつつも、何か未熟さを感じさせる筆づかいによって、素朴な表情になっていた。何か、中学生くらいの年齢の子が、憧れるままにスケッチブックに模写したような雰囲気があり、技巧的な感じが一切しないので、すごく親しみを感じて、いい絵だなと思った。

画家としてのキャリアが25年近くある作家なのだが、巧くなって退屈になってしまうことから逃れきっていて、良いなと思う…。遠い昔に絵を描いていたけど、久しぶりに絵筆をとってみました、といった雰囲気の、光をきれいに捉える成熟した観察眼と、それに追いつけない稚拙な筆づかい、といったアンバランスさが、凄く印象的なバランスになっていた。

石井明朝体

駅のそばの駐車場のエレベータの注意書きステッカーが、強い色彩とシンプルな線画で良い雰囲気だった。特に、「あぶない」の書体が、いまのDTPでは使うことのできない、写研の写植用書体、「石井太明朝体オールドスタイル」で組まれていて、味がある。

かつて日本では書体メーカーは写研とモリサワが2大勢力で、2大といっても、写研が7-80%のシェアを占めていたようだが、80年代後半に時代がコンピュータを使った組版DTP)に移行していく中で、積極的に書体のデジタル化を進めたモリサワに対し、写研は独自路線で書体のデジタル化や販売を行わない姿勢を貫いたことから、シェアは一気に逆転し、写研はもはや使用されることはほとんど無くなってしまった。

しかし写研のフォントは、当時一大勢力を誇っていたように、その形の美しさや完成度は今もなお失われておらず、時々、どうしても写研のフォントでなければ雰囲気が出ないとこだわる書籍編集者や装丁者によって、ほそぼそと使われ続けているようだ。

このステッカーに関しては、写研のシェア全盛期の30年以上前に貼られたままずっとそのままなのか、あるいは、その当時の版下を使い続けているステッカー業者がいるのかどちらかだろうが、この独特のやわらかい雰囲気のひらがなは、たしかに目に留まる。

中田島砂丘

少し気分転換に海へ行った。天気が悪く、大降りというわけではないが、小雨とも言えない程度に、しっかり雨が降っている日だったにも関わらず、何となく家を出た。風はそんなに無いとはいえ、十分に寒く、明らかに海など行くような日ではなかったが、頭をリセットする必要があった。車で20分ほどで、浜に着く。

雨のおかげで砂浜が湿って固まって、歩き易くなっており、その点は良かった。通常であれば、足元が砂まみれになることは避けられない…。

浜には男女がひと組いた。てっきり無人だと思ったが、こういう雰囲気の海が好きな人たちかもしれない。しかしその二人は、自分より先に帰ってしまったので、その後は見渡す限り誰もいなくなった。

ここ中田島砂丘は、高校生だった頃、陸上部の練習(浜練と呼ばれていた)でよく来ていた。ある時、皆でダッシュ練習をしていたとき、テレビ局のディレクターなる人が突然現れて、今からドラマの撮影でこの浜辺を使うので、申し訳ないけれども場所を空けてほしい、協力してもらえたら粗品も提供するといったことを言った。当時の部長が、じゃあという事で場所を明け渡した。我々は遠くから、テレビ局のスタッフの方々が、ダッシュ練でボコボコになった砂浜を整地するのを見ていた。何かボロボロの格好でギターを抱えた俳優が出てきて、「この夢がかわいそうだよ」という歌詞の歌を熱唱しながら浜辺を歩いているシーンを撮影していた。我々は、なんでかわいそうなんだろうね、などと話しつつ、「粗品」を待っていたのだが、いつまでも撮影が終わる気配はなく、粗品というのも、部員一同どうでもよくなっていたので、他の場所で残りの練習をして、浜を後にした。結局、なんのドラマの撮影だったのかは、知らない。

 

中田島砂丘アカウミガメの産卵地として知られているので、卵を安全に孵化させるためのケージが置いてあった。これは昔は無かった気がする…。

寒かったのと、海をちょっと見たら満足したので、すぐに帰った。

再加熱可能ペットボトル

コンビニで売っている温かいペットボトルのお茶、いつの間にか内容量500mlのものがかなり増えているのを全然知らなかった。確かに以前は、温かいペットボトルのお茶は少し容量少なめの350mlというのが定番だったので、若干割高感があったのだが…。さらに、伊藤園のものは、ペットボトルのままレンジに入れて加熱もOK!となっていて、進歩を感じた…。ペットボトルはレンジに絶対入れてはいけないはずだったが…。このペットボトルは、少し厚くて、透明度が若干低いようだ。

「さめてもおいしい」けど「レンジで再加熱もOK」という、すべてのネガティブ要素を潰していこうとするメーカーの努力…

デザインのルーツを開示することについて

昨年末のことになるが、静岡文化芸術大学JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)の新人賞の巡回展がやっており、たまたま同大学図書館を利用した際に、見ることが出来た。3人のデザイナーのきれいなコマーシャルワークが展示されていた。

デザインでも、絵画でも音楽でもなんでもそうだが、どんな人であっても、「過去のどんな人の作品にも似ていない全く新しいもの」というのは、基本的には作ることが難しい。「過去のどんな人の作品からも一切の影響を受けていないもの」と言い換えると、それがどれだけ難しいことかが分かる。逆に言えば、何らかのベースがない限り、新しさというのは定義できないものなので、それが新しいというのなら、古いものが何なのか知っている、あるいは定義する必要がある。

誰もが何かから影響を受けて、何かを作っていくのだが、そのような、「この作品を作る上で、誰の、どの部分に影響を受けたのか」というルーツを知ることは、学びを得る上でかなり役に立つことだと思う。でも、そういう情報というのは、わりと隠されてしまっていることが多く、それによって、作品の理解のきっかけを損失してしまっていることがよくある気がする。

過去のいろいろな芸術家が、なにか新時代を作る作品を作ったときも、(あたりまえなのだが、)その主張は、「今までのものはコレだから古く、私が作ったものはコレだから新しい」という形式をとる。

例えばピカソキュビズムを始めたときも、「今までの絵画はひと画面にひとつの視点しか入れてなかったから、私の新しい絵画はひと画面に2つ以上の視点を持つ」と言って、正面と側面のに2視点がくっついたような人物画を作った。学校で美術を習う際も、歴史を追うようにして芸術を教える(と思う)。ピカソが超天才だったのでいきなり最高に新しいものが出来ました、という説明ではなく、それまでにどんな絵画があって、どのような系譜でそこに至ったのかということは必ず説明される。というより、それが説明されるまで、少なくとも自分は、ピカソがどう凄かったのかというのをよく理解できなかった。

デザインについても同じことが言えて、何かトレンドになったレイアウト等を見た時も、それ単体のみを眺めているのと、それに至るまでの系譜を知った上で眺めているのだと、だいぶ見方が変わってくる。

そういう観点では、イギリスにいた際に行ったデザイン系の展覧会の中で、印象に残ったものがひとつあって、それは、SPIN 360という、ロンドンのデザイン事務所SPINの今までの仕事を集めた展覧会だった。

この人達の展覧会では、自分の仕事をただ紹介するだけでなく、自分が影響を受けた他のデザイン、自分のデザインの参照元を同時に大量に展示していて、むしろ自分たちの作品より、そういう先人たちの作品のほうが扱いが大きいくらいの勢いをもって、展示を組み立てていた。一応、個展のはずなのだが、個展というには全体に占める自作の分量がかなり少なかった。

でもその見せ方が自分にはとても面白く感じられた。レイアウトや文字表現の歴史がどういう風に進化していったか、そのうえで自分たちの仕事がどういう系譜に連なるものになるのか、歴史の中に自分たちの仕事を埋め込んでいこうとする意志がかなりあって、見る側にとっても、その人達がどういうものからデザインを学んでいったか、ネタ元が思い切り示されているので、その人達が何を新しく加えたのかが分かりやすかった。

正直、ほとんど過去の偉人のデザインをそのまま引用してるようにみえる作品すらあった気がするが、そういうのですら堂々と、ネタ元と自作を横並びで展示してあって、そのスタイルの普遍性を伝えているようで、清々しかった。それを見て、たしかに新しいものだけが価値を帯びるのでなく、すでにあった良質なものが失われずに受け継がれるだけでも価値があるとも思った。

誰もが誰かのスタイルから影響を受けていくものだが、この人達の展示は、それが2段階、3段階、それ以上に遡れるようになっていて、あくまで自分たちは無数の枝分かれのひとつというスタンスになっている。だから、あとからそれを見た人々に、まだ継がれていない枝の部分があることを感じさせて、その先の可能性を示唆しているところが、本当によい展覧会だったなと思う。。